自分とは
どうも、昨日初めて尻が切れた者です。
自分って何だろうってよく考えます。
わからないんですけどね。考えてる今が自分なのかもしれませんし。
私はこの18年間の生の中で自分の2つの生き方があることに気が付きました。
正確には生きた跡なんでしょうかね。まあいいか。
で、おおざっぱに言うと自分だけを考え、今だけを見ていた時期と周りに気を遣い、過去の過ちと未来への不安で板挟みになってる時期なんですね。
まあ簡単に言うと、過去の私は確かな私の足跡かもしれませんが、その過去ですら2つの集合として捉えられ、さらにその2つは対照的なんですよね。
これはどちらの私が過去の本当の私なのか。もしくはどちらも私ではあったが私ではないのか。
こうやって考えると自分自身を考えることはコウモリがコウモリを知るのと同じく難しいのだとつくづく感じさせられます。
で、過去に本当の私がいる可能性をここまで考えましたが、次は未来にある可能性を考えてみます。
これは簡単で、理想とかこうありたいというモデルは今の考える未来に見ているのだと思うのです。
これはアリストテレスの言葉を借りれば目的因でしょうかね。
未来のそれに向かうための私があるという考え方もできますが、未来の像を想定している主体は恐らく未来の姿が本当の自分自身であると考えているのでしょう。
こう考えると今を生きる人にとってその人自身は今に確かにあり、過去に生きる人はまたそこにあり、未来にある人もそうであるのでしょうか。
なんかありきたりですね…。
となると人はその人の意識がどの時間に向いているのかでその存在の確かさを論じられるのでしょうか。となると今とはなんでしょうか。
過去に意識を向けている間その人は元いた世界から消えてしまうのでしょうか。
いや肉体的には存在し続けますが、意識はそこにあらずなのでしょう。
となれば人の確かさの源は人の意識、思考なのでしょうか。
ううむ、難しい。
今寒いんだから存在してるってのは知覚の束という捉え方なんでしょうかね。
まあ風呂でも入って考えてみます。