中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

東大祝辞について

どうも、元号が変わりましたが元年の成人予定である以外影響がないなあと思っている者です。

もう時事と呼ぶには遅い気もしますが、今年度の新入生への聞き取り調査を目にしたのでそれも踏まえて私なりに批判してみたいと思います。

まず、祝辞としてどうなのかという話ですが、祝辞=手放しにほめたたえることなのでしょうか。私は祝辞とは節目を迎える人々に対して実りあるものであること、彼らの新たなステージでの一つの契機になることなどの方が重要であると思います。その点では私はあの祝辞については適切であるのではないかと思いました。

祝辞としてふさわしくないっていう意見があるなら、祝辞ではなく”お言葉”とでもしたらいいのではないでしょうかね、陳腐ですが。

次に入学者の男女比についての言及。私の高校でも東大京大を目指す同級生が何人かいました。その中でも確かに女性は少なかった(たしか1/4くらいだったかなあ)ように記憶しています。他方私の地元の中学では大学に進学することはおろか、普通科に行くより商業工業に行ってすぐ働くような考えがあるようでもありました。そのためといいますか、私自身も高校受験を意識したのは3年生の時でしたし、進路も親と先生に大体2か3択まで絞ってもらっての決定でした。おそらくですが、親の収入が子を支えるに足るものではないというのも一つでしょうか。そしてここに関わってくるであろうものが未成年での懐胎などでしょうか。その場合相手が消える可能性もありますし、未成年相手にそういうことをする人間がその相手や子供を養うに足る収入源を持っているとは考えにくいと思います(責任感が希薄な人間、リスクを顧みない人ともいえるでしょうか)。そういった地方といいますか、独特の地域の”色”からも女性の社会進出の枷のようなものは見てとれるように思います。こういう点をみると能力の差があるというよりも機会の差があるように感じます。おそらくですが大学進学より以前、義務教育課程修了のその時に既に大学での顕著な入学者の男女比の差の原因の一端のようなものが現れているのではないでしょうか。こういったことからもですが、親の収入が進学に関わるのはほぼ自明のことでもあると思います。アメリカではそれによって才能が埋もれないための措置を施しているようですが、日本では国がそうしたとしても文化や風俗といった違いでうまく機能しないようにも思えます。で、本題に戻りますが、男女での能力の差を調べたいのでしたら模試を用いればいいかと思うのです。たしか男女の記載欄があったはずなのでそれで別々に成績の分布を示せばよいかと。そうすれば能力の差が少なくともその時点でのその模試の受験者においてみられるか否かという判断が得られるはずです。趣旨とはズレているようにも思いますが…。

最後に個人的な感想ですが、私は特に報われる云々の話に感銘を受けましたね。彼らを尊重しつつも彼らに釘を刺すようなそんな言葉だったように思います。

私は東大にダブルスコアつけられるような大学の生徒ですが、多様性を叫ぶ社会の一方その多様性を認識し難いなかで、自分を取り巻く環境が当然でないこと、この環境を欲しても得られない人というのがいるかもしれないということ。そんなことを考えさせられました。私も環境としては最高だったのでしょうけどね…私自身が愚かだったゆえにその環境を活かしきれていなかったか、あるいは気づいてすらなかったのかもしれませんね…。

私は自分の大学の入学式で覚えているのは慣れないスーツで暑苦しいホールに詰め込まれたことだけですね…その前日だったか当日だったかは雨だったので余計に暑苦しかったですね…。

まあいいや、全文読んだのももう1か月近く前なので怪しいですが、もう数か月も更新してなかったなあと思い筆(?)を取った次第です。

まだ連休中盤ですが、体調等には気を付けて

では。