中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

路上ライブの問題について

どうも、DQB2でガントリークレーンを作り出したらいろんなことが学べた代わりに休日が丸々つぶれた者です。

さて、路上ライブの問題については朝のニュースで知りましたが最初は何も口から出ませんでした。唖然とするとはまさにこのことかと。

ですがそのあと投稿者の意見は共感するところがありました。

人の心を傷つけてしまった点が悔やまれますね。理想的なのはルール遵守を互いに不快な気持ちになることなく促せる社会であるとは思います。

ただ、ふと考えてもみると仮に帰り道で自分の好きなアーティスト、あるいは聞いたことのある曲があったら立ち止まってしまう気もしまいます。

こういう個人のふとしたものの積み重ねが集団的迷惑行為につながるのだろうなあと思いますね。気を付けます。

彼が言うには警察から許可をもらうのが筋のようですね。

なので遅い時間であるので返却などを考えると手間かもしれませんが、何らかの形で許可しているかどうかを判別できればいいなあと思います。

とはいえ私も路上ライブ禁止区域でアーティストが路上ライブをするなんて思っていなかったため(何の根拠もない信頼でしたね…)、初めて路上ライブ等を禁止している区域があることを知りました。

なのでルールの浸透、あるいはより目に付きやすいように注意書きを増やすなどをしておくのが最初なのかなあと思います。

そのあとで書類でもなんでもいいですが、許可された旨を記載した警察から出された物を掲示してライブを行えば、それで許可を取ってるか否か、ルールに則っているか否かがわかりやすくなるんじゃないかなあと思いますね。

余談ですが、私も基本的にはルールは守るように心がけています。

しかし、こうするようになってから人に対して抱く感情の大半が黒いものに変わってしまったようにも感じます。余裕がなくなっているんですかね。

昔はルールなんて気にしていませんでしたが、今は自分のルールを社会のルールに縛られて生きています。

ルールが言動の軸になっているから他人のそれに対してもルールを通してみることしかできなくなっているのでしょうか。

つまらない人間になっているのは否めませんし、許容することだってできなくなっていって、器だって小さくなっているのはわかっています。

ですが、なぜルールがあるのにそれを守らないのでしょう。

なぜ守らなくても不利益を被るどころか、むしろ活き活きとするのでしょう。

なぜ、ルールを守らなくても許されるのでしょう。

ルールとは守る人と守らない人が存在することを想定してつくられたものなのでしょうか。

ルールを守ることは他人の自由を侵害しないことなのではないでしょうか。

社会という集合ができたときに、人はルールによって互いの自由を侵害しない範囲での自由を認め合ったのではないのでしょうか。

ではルールを守らないということは他人の自由を害しているのではないでしょうか。

しかし、実際にはそこにルールが守られていないがゆえに不利益を被る人がいなかったら、さらに言えば不利益を被った人が何も言わなければそのルール違反は当事者(違反者と被害者)の人たちしか知らないものとなり、やがてその当事者たちも忘れてしまうため、ルールというものが他者の自由の保護に直結しているのかわかりづらいのかもしれません。

ルール、道徳、教義、人はいろんなもので行動や言動を縛りますね。

これって他人を思ってやっているならばその行為は善なのかもしれませんが、それがないならば他人に害為す存在であるととれば人そのものは人の敵なのでしょうか。

難しいですね。

まあ自身の言動を振り返ってみて、誰かを傷つけてはいないかとか、そんなことから始めればいいんでしょうかね。