道徳とか倫理ってなんだろう
どうも、道徳の系譜を借りて読んでいるのですが哲学書っていうより目の前に人がいるかのような感じで驚いている者です。
まあこの本から道徳ってなんだろうって思うようになったわけです。
倫理はまだちゃんと勉強してないのでわかりませんが、道徳は小学生の時にありましたね。
それまで私は道徳について疑うことそのものが不道徳なのではないか、それすなわち悪なのではないかと恐れていたのです。
ですが、例えばどうして「己の欲せざるところ他人に施すなかれ」なのでしょうか。
私はこれは確かに人への思いやりもあるのかもしれませんが、そこには人間関係で問題を起こさないためのものでもあるのかなあと考えました。
で道徳関連の本を図書館で探してたのですが…あまり多くなかったんですよね。
だから具体的に私の中に何が道徳としてあるのかが見えてこないのです。
これはたぶん私がそれを当たり前だと思っているから見えないんだと思うのです。
昔やったなあっていうのだとお金とか家族、友人のランク付けですかね。
何が一番大事かってやつですけど。
今考えればこれはお金が大事って人がいて、他人が大事って人がいるから今の資本主義社会が回っているのかなあと、だからこそ答えは一意に定まらないのかなあと思いましたね。
これが石器時代とかそれより前だったらお金なんかないですから、これはこれで他人か武器や食料などのリソースが大事だって人になるのかなあって。
こうやって各々が各々の価値基準を持つことが変化の根本なのかなあって思いました。
でも、道徳と法律とかの規範の線引きって難しいです。
法に触れることがダメなのは私がその共同体に属しているからで、それは人類の普遍な法ではないんですよね。だからこっちでよくないことはあっちでは問題ないし、その逆も然りなはずなんですよね。
じゃあ道徳は普遍なものなのかってなるとこれもそうではないみたいで、いわゆる文化の違いってやつだと思うのです。
で、以前考えたのは人間はそのすべての性質を全体にわたって調査すれば二項分布のあの曲線のようになるか、あるいは対称な形になるかしているのではないかなあと。
で、そんな規模で人は結束できないからって昔の人は似たような思想や習慣、生活圏の人に限定して集団をつくっていったのかなあって。
その結果様々な善を追求する集団がいっぱいできたのかなあって思ったのです。
そうしたらその善(ここでは目的のようなものとして捉えています)のための法は違ってくるだろうし、生活圏によって宗教も違うし、できる作物も違うし、こういういろんな違いが集まって文化の違いとか道徳というものへの認識のずれが生じるのかなあって思いましたね。まあなにを世迷言をという感じですが。
まあ文化によって変わるような何かに縛られてるのかなあってことです。
でも縛られることで安心感とかそういうのも得ているんだと思います。
だから道徳は疑うっていうよりも吟味することから始めたほうがいいのかもしれませんね。
もうちょいちゃんと考えるべきでしたかね…