普通って難しい
どうも、小学生のころから将来の夢は普通の社会人になることである者です。
この普通って知らないうちに使っているものの尺度のようなものなんですけど、これって何でしょうね。
私はこれは一種の信仰なんだろうなあと思うのです。
誰かも信じることから始まるみたいなことを言ってたと思いますが。
普通とはおそらくそれを発した主体の認識した世界の一部をみて判断しているステレオタイプじゃないですけど、理想的な像なのではないかと思います。
私の言う普通の社会人だって年収いくらで、どんな生活をしている人が普通なのか。
金持ちの人と私とでは普通の指すものも異なってくるでしょうしね。
また別の用法としては普通はしないだろといった常識的に考えておかしいだろの使い方でしょうかね。普通=常識としてこのケースでは使っているのでしょうか。
おそらくですが常識だって人によって違います。
ある分野の専門家とそうでない人であれば常識の指すものは異なるでしょう。
つまり、常識もその人の中で勝手に作られたものなんでしょう。
結局のところ、その人の当たり前だとか普通を形成するのはその人自身の置かれた環境だと思うのですね。
まあこの辺はとてもありきたりな結論ですね、面白くない。
じゃあ普通になれるのでしょうか。
私は普通の社会人(私の描く理想の社会人像)になれる自信はありません。
ですがこんなことを言っていても時間は過ぎていき、私は就職しなければならない状況に立たされるのでしょう。
そして、運が良ければ私を必要とする企業と出会い、私はそこで働くのでしょう。自分の過去に持っていた理想なんて忘れて。次は理想的な30代、40代と先のことばかりを見て今を生きなくなっていくのでしょう。やがてそれも捨ててしまうのに。
一方で、これは自身のコンパスにもなるのです。暗闇の中で何も見えないまま進んでしまって、気が付いたらもう取り返しのつかないことになっていたなんてことを避けるためにも必要ではあるのでしょう。
不安だとかそういったものを軽減するにも役立つのでしょうね。
まあ過去にこだわるよりははるかにマシでしょうか。
過去を振り返るのは反省するときなどの今に意味のある時だけでいいのでね。
結論というか、わかったことはやっぱり私は何かを信じているんだなあということ。
同時に、それがイデアのようなものなのではなく、世界の要素を切り貼りして作り上げた理想なのだろうということですかね。
芸術とかの理想はわかりませんが、絵画ならその人の見ている世界(想像のものでも現実のものでも)なのかなあとか思いますね。
陶芸ってなんかあるのかな…機能的かつ美しいとかですかね…
美しさもぼんやりしてますね…難しい…