中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

ルールとは

どうも、花粉のせいかくしゃみが出だした者です。まだ2月やぞ…?

さて、今回はルールについて考えてみます。

法律ではないです。法律とかもルールといえるのは事実ですが重みの違いで今回は別のものとして考えます。

ルールをローカルなごく小さな共同体(最小単位を個人とする)での規則、規範と定めてみます。

簡単に言えば自分ルールとか学校で携帯電話、スマートフォンの使用を禁止するようなものです。

ですが自分ルールには大抵の人はしたがっているのでしょうけど、一見すると強制力のない学校などの施設利用に伴うルールなどは軽視されがちなように思います。

あるいは私が重く捉えすぎなだけかもしれませんが。

そこでルールを破る人の心理とは、あるいは目的とはと考えてみたのですが、一番単純なのはかっこつけたいってのかなあと思いました。

まあ生物の本能ですよね。群れで目立つものが交配する相手を得る、その目立ち方が人間は多様なだけで、こういったものもまた求愛行動のようなものなのだろうと考えました。私自身は中学の2年間は先生方に迷惑をかけた身です(それ以外の学年でも先生方にはお世話になっていましたが)。その当時は頭の中にあったステレオタイプを演じているような感じだったと思います。少し恥ずかしいですがかまってほしいみたいな部分はあったのでしょう。本題に戻りますが、そもそも私の周囲ではルールを破っている人が多くいるので気になったわけです。具体的に言えば飲食禁止の施設内での飲食、挙句にはごみの放置や飲みかけのそれなどの放置です。これらに遭うたびに思いますが、このようなルールは強制力は確かにないようですが、他人の快不快に関わるものであるのは事実なのかなあと思います。まだ水やお茶を飲むのはいいと思います、水分を取ることを禁止して体調を崩され、ルールのせいにされても困るので。ただ食い物やジュースはにおいが混じって、さらに冬場はなぜか窓を開けようとしないので空気も淀んでいるのでさらに不快になるんですよね。室内でそれを消費することを許容するとしてもせめて窓を開けてほしいわけです。まあルールを破る側からすれば「我慢すればいい」、「鼻で呼吸しなければいい」、「部屋から出ていけばいい」といった感じなのでしょうけども。

つまり、ルールを遵守することはすなわち、利他的な行動をとっていることなのではないでしょうか。

互いに不快にならないためのものであるべきなのではないでしょうか。

それは合理的に定められた明確なものであるべきではないでしょうか。

それともう一つ、先に群れでの自身の優位性を示すためにルールを破るのではないかと述べましたが、そのような人が増えてもなおルールを破る人が増えるのは生物の理に適っているでしょうか。確かにルールは存在する以上守るか破るの二択であるように思われます。なので仮に発端が生物の本能に近い欲求により生じたのであるとすれば、その後人間のよく言われる「獲得的な」自己の選択の際(すなわちアイデンティティの確立)により生物的に有利である方を選ぶ人がいるのもある種生物の本能なのでしょう。しかしこの破る人が過半数を超え、最終的に守る人がマイノリティになってしまったらどうなるのでしょうか。

ルールそのものが改変されるか、あるいは消え失せるのでしょうか?同時に彼らの優位性の土台はひっくり返るのでしょうか。それを彼ら自身は望むでしょうか。

私は他人に私のルールを守れと言いたいわけではありません(まあ社会のルールを守ることが私だけの中にあるルールに基づいた行動であると言われてしまえば閉口するほかありませんが)。ただ「法律ほどの強制力のない社会的なルールを守らないのはなぜなのか」、「その行為に合理的な背景があるのか」、「その行為を自分自身が他人にされてどう思うか」、「それはどのような迷惑をかける可能性があるのか」などといったことを考えてみればルールがなくともそれに近い行動を自然と選択できるのではないのでしょうか。

個人的にはポイ捨てやゴミ出しの日や時間を守らないのも非常に強い嫌悪の対象ですね。前者はゴミが出ることを見越して袋を持ち歩けば分別はできずともその場所の衛生状態は保たれるはずですし、後者もその日だけでも朝早く起きればいいだけですから。これらはルール云々というよりその人の計画性や予測するの力などの欠如を疑わざるを得ないことであると思いますね。一方では何らかの欠陥があるとしてもそれを知っていて、それに対しリカバリーを図る方々も世の中にはいるはずなんですけどね…

個人的な思いが強く、冗長になってしまいましたがルールを守ればみんながほどほどに幸せになれるんじゃないかなって思います。では。

もう春休みっぽいけどまだ冬やね

どうも、暇だったんでDQ11で縛りを課しての2週目で時間を食いつぶしている者です。

カジノを100コインから始めてポーカーやスロットで遊んでたら、大樹墜落前にジャックポットが3回でて、その時点で60万たまるという。

そのあと墜落後グレイグだけの状態でソルティコに直行し200万まで増やしました(ジャックポット1回…)。

それに、2週目だと泣かないかなと思っていたら1週目以上に泣いてるという謎。

まあいいや。

さて、大学生になると春休みがホント長いですね。

まだ2月半ばなのに「春」休みというのも変ですが(正式な名前は別にあるんですかね?)

でも熱帯地域ではずーっと28度とかでジメジメしてるんですかね…

季節とか月日とかってどこでも共通してある時間としてもそれに伴っている環境は異なるんですよね。

日本人の感覚だと6~8月が夏でもオーストラリアでは冬。

このことは季節でなく気温で表すか、あるいは夏=暑い時期などという記号を用いないことで解決できそうですが、まあそれをするメリットはないです。たぶん。

まあでもこの考えだと年中気温が一定で気候も安定しているところがあったらそこの季節は一つになってしまうんですかね。

それかその地域独特の分け方が生まれるんでしょうか。

まあ突き詰めれば地球と太陽の位置関係になるんでしょうけど。

ゴールデンウィークもそうですね。別に何日間の休みであってもあの時期の休みはゴールデンと称されるようです。

国内というコミュニティにおける共通了解を図ることでその集団を治めやすくしているんでしょうか。

なんで時間を太陽が昇ってから再び昇るまでとせず、一日という時間を人間が規定しているのでしょうか。

動物の一日は人のそれとは異なるのでしょうか。

たぶん人間がポリス的と言われるからなのでしょうね。

だからその種族内での社会というものを形成するうえでの単位を必要とした。

それを定めることで生産性を高められたんでしょうかね、メリハリが大事ってのは今でも言われることですし。

ですが正確に地球の公転がちょうど一周して一年となるようにすべきなのか、あるいは時間という概念をそれ自体として正確にしていくことが重要なのか。

社会には周期が規則的であることは良いことでしょうし、自然科学では時間がより精密になることはよいことでしょうけど。

ここだけをみても言語が変化してしまう理由が垣間見れる気がしますね。

一つの記号にそれぞれの解釈があって、だから誰かのそれを別の誰かに受け継いでもらうことはできなくて…ってことなのでしょうかね。

余談ですが、言語がなぜ変化するのかという問いに対して言語が生き物だからというのはトートロジーだと思ってます。その根本にあるのは人が各々の解釈をある事物に対してしうるからだとも思いますね。関係ないけど。

最近書いてないやってなってぶわーってやったんで冗長な拙文となってしまいました。

まだ寒いので風邪などには気を付けてください。では。

期末が一段落したー

どうも、昨日は予期せぬトラブルで結局4科目の期末をその日のうちにすることになってしまった者です。

期末があと一科目を残すのみとなり、来週金曜には恐らく春休みなのだろうと見込んでいるところです。

正直不安と焦りで押しつぶされそうだったけど何とかやれてよかったです。

どれもまあまあできたという手ごたえだったので今はホッとしています。

ただ、おかげで先週は本を読むだけの時間的、精神的余裕もなくゲームも触れませんでしたね。

忙しいというよりはそれをして何かを失うかもしれないという不安が目の前に迫っていたからだと思います。

私自身がその特性上目標を立てるとか、あるいは細かくプロセスを計画するというのが苦手でして。

そのため、レポートなんかはやると決めたらすぐやりますし、課題はできるだけ早くやるようにしています。

そのため完成度は低くなりますけどね。

なぜかわからないのですが具体的なステップを設けるのができないんですよね。

だから文章一つ書くにしても書き始めを考えるくらいで、あとは勢いで何とかするんですね。

ひらめきとか思いついたこととか、思い出したこととかを文章から想起するんですかね。たぶん。

まあいいや。

ついでに最近のことで引っかかったことでも。

最近ではたむけんとラーメン屋の話がよくニュースで扱われている印象を受けますね。

Twitterはもう1年近く触ってないので今はどうなっているか知りませんが、私はこの炎上という現象にいい印象を抱いてはいません。

まあ当然ですよね。社会的に見て、あるいは大衆が見なした悪があるから、そこが燃え上がるわけですし。

でもね、私が嫌いなのは善人面した悪人、あるいは半端な人が悪とみなされるそれに対して情報的にも立場的にも優位に立ち、そのうえで攻撃することを善であるかのように思っているのではないかと感ぜられる点にあるんです。

メディアで取り上げられるSNS上の反応はごく一部に過ぎないのでしょうけど。

まとも、特に感情的に吐き出された暴言などではないものが少ないように思います。

特に不思議なのが昨今では特に知的財産というものが重視され、強調されつつあるにも拘わらず、SNS上での発言がその主体に帰属しないかのように考えている人が多いように思われる点です。

で、ラーメン屋の方の取材の際にいたずら電話に困っているようでした。

仮にSNS上での彼の言動が問題だったとして、SNS上に別の人格を認めるならば、なぜ彼らは現実世界の店へ迷惑をかけることを正義の行使として認識し得るのでしょうか。

現実世界の彼はSNS上の彼とは異なる人格であるならば、それは正義の行使ではなく単なる暴力、加虐に他ならないと思います。

SNSと現実世界を分離して考えてみたときに、片方のことを確かに持ち込んでいるのは事実です(SNSに上げられる情報の多くは現実の主体の心理的、実際的経験に基づくものでしょうから)。ですが、SNS上での悪人に対して、現実世界でも悪人であろうと決めつけ、いわんやその人に迷惑をかけようものならその時点でその行為者は「他者の自由を侵害する」という意味での現実社会での悪になるはずなのです。

私は筋の通ったクレームや感情を介さない批判はサービス向上のために有益なフィードバックであると思いますが、そうではない―ましてやそのサービスを利用してもいない―人間がただ問題点だけを晒し上げ、そこに石を投げ、火を放ち、唾を吐くのは自身の利己的な欲求(自己肯定感や自己効力感など)を満たすためにする自慰行為、あるいは正義の皮を被った裁判官気取りのエゴイストによるいじめではないでしょうか。

どうでもいいこととそうでないことの線引きが難しくなりつつあるのは事実でしょう。

ですが私にはそのどうでもいいことに飛びついたピラニアがそのどうでもいいことを食い散らかすだけじゃ飽き足らず、それとつながっている部分まで川に引きずり込んで食らおうとしているのが見るに堪えないだけです。

いまいち上手く例えられませんでしたね…

とにかく午前3時とか4時とかにイタ電するくらいなら、寝るとかアニメ見るとかゲームするとか、自分の実になることをしたほうがいいんじゃないのってだけです。

他人にわざわざ迷惑をかけるために自分の時間を無駄にするのはちょっとコストに対して得られるものが少なすぎるんじゃないかなってだけです。

じかんだいじに

 

明石市の市長さんのことに関連して考えたこと

どうも、最近は一部のニュースは一般人の小室なんとかさんのことばかりで日本は平和だなあと思う者です。

唐突ですが、もう彼は辞めてしまったんですかね。

私も第一印象(メディアの速さばかりを追い求めた情報を基に形成された印象)ではあまりいい印象を抱きませんでした。

が、彼の市長としての実績及びあの発言の後の部分が判明してからは180度変わりましたね。その翌日か当日かに速報で辞意を表明とあったので残念に思いましたが。

ここで不思議に思ったのが”よそ”からの”匿名”の苦情が殺到したんですかねってことです。

そもそも市長を市長たらしめたのは市民であるわけですよね、おそらく。

であるならばその処遇もまた市民に帰せられるべきではないのかなあということです。

元々彼は4月の選挙で民意を問う方針と言っていたように思います。

悪い印象を抱いていたときはどうして辞めないのかなとは思いましたが、今考えれば別に市長であるのだから民意を問うのは当然のことであるなあと思いますね。

で、私が常々思っているのは匿名性って一方的な暴力のためのものじゃないよねってことです。

どっかの調査ではある事柄に対して極端な意見を持つ人が多く意見発信する一方で中間の人は静観しているといったものがありました。

まだ意見なら議論する余地はあるかもしれませんしいいでしょうけども。

企業の問題では同名の無関係な企業にまで影響が及んだという話だってあります。

これは一体どういうことなのか私には理解しかねますが。

私はそういう人らは自身の発言に対してちょっと無責任すぎやしないかなと思うわけです。

「なんかムカついたから」ってのと同じくらい理不尽じゃないですかね。

「同名だから」って理由で無関係な人を攻撃するのと一緒ですよね。

匿名性ゆえにクレーム(これは本来、品質及び顧客満足度を高めるためのものだったではないでしょうか)がただのストレス発散、他人を傷つける自慰行為と化しているように思います。

もちろん私だって今匿名性によって守られているのは事実です。

ですが匿名性は武器じゃなくて防具であるべきだと思うのです。

だから何かに対して攻撃するなら(すなわち武器を取るならば)名乗るとは言わずともある程度の情報公開を攻撃側にも課すべきじゃないでしょうか。

その”攻撃”に単なる自己満足、自分本位な動機がない、すなわち正しい意味での”批判”であるならば攻撃側はそのことについて何の負い目もないでしょうし、批判される側にとってもチャンスになると思うのですが。

まあ、実際はそうもいかないんでしょうね。

羊の皮をかぶったハイエナがたくさんいても羊飼いはそれらを守ることだけを考えるんでしょうね。そのハイエナを何とかすることはきっとその羊飼いの仕事ではないのですから。

うーむ、人の本性は暴力なんでしょうかね…わかりませんね…

まあいいや。

では。インフルエンザには気を付けて

もうすぐ期末なので

どうも、人が集まるところで暖房をつけるのは無駄だと思う者です。

もうすぐ期末なので自分自身の確認のために…

まず電磁気学、これは静電場のみ範囲なので主な法則は2つ。

・divE=ρ/ε₀  (ガウスの法則)…式(1.1)

・rotE=0       (渦なしの法則)…式(1.2)

だったはずです。

ガウスの法則の微分形から積分形へは

ガウスの発散定理 ∬E・ndS=∭divEdV …式(1.3)

を用いて式(1.1)を辺々体積積分して、左辺を(1.3)を用いて変形すれば

・∬EndS=1/ε₀∭ρdV  (ガウスの法則の積分形)…式(1.4)

を得ます。

渦なしの法則に関してはまず

ストークスの定理 ∬(rotE)ndS=∫Etds …式(1.5)

を用いるのですが、まず静電場であることから式(1.5)の右辺が0となると予想します。

右辺が何を示しているかについてですが、これは任意の閉曲線の接線方向の電場の成分の総和がとりたいのです。

ここで静電場では電場が時間変化しないのでエネルギーの観点からある閉曲線をO→AとA→O´=Oと分けたとき、同じOに戻ってくるだけなのにこの積分の値が0でなかったらおかしいわけです。

まあ少し強引ですが保存場だって思うと、右辺は0じゃないと都合が悪いわけです。

静電ポテンシャルを定めているので、先人の苦労を無視する形にはなりますが、まあ保存場でしょうということで式(1.5)の右辺が0。

ならば左辺は内積であり、nはノルム1なので左辺の積分が0になるにはrotEが0だろうと。

なので積分形の渦なしの法則は

・∫Etds=0  (渦なしの法則の積分形)…式(1.6)

となるんですね。

後者は怪しいですが前者は納得できました。

また何かあれば追記するかも

欲と意識とか

どうも、暖房は氷点下でのみ稼動を認めるべきだと思うものです。

突然ですが、意識の声の背後に何があるんでしょうね。

意識は行動を支配しているように感じますが、これを支配するなにかもあるのではないでしょうか。

それで、やや観念的ではありますが私は欲なのではないかと思うのです。

その欲の根本になるのはたぶん人間の体の化学的性質、血糖値やホルモンだとかそんなものだと思うのです。

しかし、そうなれば人の体は人が意識して維持しているのでしょうか。

人の体の脳ではない(行動を司れない)なにかが体に対して何が必要なのかを教えているのでしょうか。

ということは、例えばおなかがすいたという感覚は生存のためのなにかの声なのかなあと思うのです。

生存に関する必要な欲求というのは私ではなく、この体の生存したいという声なのかなあと。

そうなると生存には必要ではない欲というものがあるのかなあと思うわけです。

例えば昔の人(狩猟により生存していた頃の人類)はゲームだってありませんし、タバコやお菓子のような嗜好品もなかったでしょう。しかし彼らは生きていた(歴史ではそうなっているというだけですが)。

このころと比べれば今は様々なものがあり、消費されています。

これを不要なものを生産し消費するだけの無意味な行動ととるか、必要というものは時代の流れにより変化したととるかでしょうか。

後者のほうが自然ですかね。

人の欲というのは恐らく決して満たされることのない、満足というものを知らない貪欲な化け物であるのですから。

生肉を食ってた時代から火を通す時代へ、農作業から多くのモノを作り、各地と取引することでその欲に応えるモノも多様化した。そんな流れが続いてきたのでしょうかね。

でもそうなると今の欲は人間のアプリオリな欲求ではないのでしょうか。

つまりその欲は人間という種の生まれたときに備わっていたものではなくなってしまいつつあるのでしょうか。

それとも昔の人もタバコやお菓子、その他のものがなかったから求めなかっただけで、もともとそのような欲求が備わっていたのでしょうか。

まあ今となっては知りえないことですが、これなら人間が何かを開発するというのはその欲に従ったまでという解釈もできるような気がしますね。

そのもとは何なのでしょうか…これがイデアというものなのでしょうか…

うーむ難しい。

まあ最近何がしたいとか何になりたいとか好きなものとかを考えるのですが何にも浮かばないので…欲の根っこを知れば自分のしたいこととかがわかるかなあと思ったまでです。何にもわかんなかったですけどね。

私はいったい何になるのでしょうか。どうなっていくのでしょうか。私は何なのでしょうかね。

こういう問いは私が私である以上答えられないものなのでしょうけど。

それでも考えたくなるものだと思います。

道徳とか倫理ってなんだろう

どうも、道徳の系譜を借りて読んでいるのですが哲学書っていうより目の前に人がいるかのような感じで驚いている者です。

まあこの本から道徳ってなんだろうって思うようになったわけです。

倫理はまだちゃんと勉強してないのでわかりませんが、道徳は小学生の時にありましたね。

それまで私は道徳について疑うことそのものが不道徳なのではないか、それすなわち悪なのではないかと恐れていたのです。

ですが、例えばどうして「己の欲せざるところ他人に施すなかれ」なのでしょうか。

私はこれは確かに人への思いやりもあるのかもしれませんが、そこには人間関係で問題を起こさないためのものでもあるのかなあと考えました。

で道徳関連の本を図書館で探してたのですが…あまり多くなかったんですよね。

だから具体的に私の中に何が道徳としてあるのかが見えてこないのです。

これはたぶん私がそれを当たり前だと思っているから見えないんだと思うのです。

昔やったなあっていうのだとお金とか家族、友人のランク付けですかね。

何が一番大事かってやつですけど。

今考えればこれはお金が大事って人がいて、他人が大事って人がいるから今の資本主義社会が回っているのかなあと、だからこそ答えは一意に定まらないのかなあと思いましたね。

これが石器時代とかそれより前だったらお金なんかないですから、これはこれで他人か武器や食料などのリソースが大事だって人になるのかなあって。

こうやって各々が各々の価値基準を持つことが変化の根本なのかなあって思いました。

でも、道徳と法律とかの規範の線引きって難しいです。

法に触れることがダメなのは私がその共同体に属しているからで、それは人類の普遍な法ではないんですよね。だからこっちでよくないことはあっちでは問題ないし、その逆も然りなはずなんですよね。

じゃあ道徳は普遍なものなのかってなるとこれもそうではないみたいで、いわゆる文化の違いってやつだと思うのです。

で、以前考えたのは人間はそのすべての性質を全体にわたって調査すれば二項分布のあの曲線のようになるか、あるいは対称な形になるかしているのではないかなあと。

で、そんな規模で人は結束できないからって昔の人は似たような思想や習慣、生活圏の人に限定して集団をつくっていったのかなあって。

その結果様々な善を追求する集団がいっぱいできたのかなあって思ったのです。

そうしたらその善(ここでは目的のようなものとして捉えています)のための法は違ってくるだろうし、生活圏によって宗教も違うし、できる作物も違うし、こういういろんな違いが集まって文化の違いとか道徳というものへの認識のずれが生じるのかなあって思いましたね。まあなにを世迷言をという感じですが。

まあ文化によって変わるような何かに縛られてるのかなあってことです。

でも縛られることで安心感とかそういうのも得ているんだと思います。

だから道徳は疑うっていうよりも吟味することから始めたほうがいいのかもしれませんね。

もうちょいちゃんと考えるべきでしたかね…