中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

哲学の入門書を読んでみて思ったこととか

どうも、イヤホンが壊れ気味でややナーバスな者です。

今までちゃんと哲学を勉強したことがなかったので用語とかの意味をまずは捉えようとしているところです。

読んでいくと私の考えはすでに先人があとにしたものなのだなあと痛感させられます。

個人的に善悪などの二項対立の脱構築を図った人の考えは正直わからんでした。

私は人の理解は比較にあって、そこで無意識に優劣をつけているのではないかと思うのです。つまりその構造の脱構築とはこの理解そのものの見直しにあるのでしょうと私は考えています。

おそらくですが、動物の判断も比較に基づいているのではないかと考えています。

より暖かい場所、より食べ物が多い場所、より安全な場所。

彼らはそれを予測や思考によってではなく経験によって導いているのかなあって。

まあ動物が経験から行動を選択するかどうかなんて知らないんですけどね。

私はこの対立すると考える二つの事象―あるいは概念でしょうか―はAに対してBをAではないものとして理解できるので、例えば有無のような片方だけを議論するのが難しいものでもその意味が大体わかるんだと思うんですね。

無ってそれそのものを観測するとそれは有になってしまうので、つまり観測的に無を定義することはたぶん不可能なんですね。ですが私たちは日常的に「~が無い」などという具合に無という概念を使っているわけです。

これは「有る」ものを想定したその人自身とその外の世界にはその「有る」ものが想定したところにない、つまり”「有る」ではない”ときにその人は「~が無い」というと思うのです。

なので私は無とは思考と日常の乖離から生まれているのではないかと思うのです。

まあ日常ってなんだよって話になるんですけど、ここでは日常はその思考する主体の生活のような、つまりその人の周囲のことと、そこでの時間的なものを考えたものとして捉えています。

簡単に言えば「昨日買ったプリンを冷蔵庫に入れておいたので、そのプリンが冷蔵庫にあると思って(経験に基づく確信)、開けてみると”プリンが入っていない”という事象が目の前にあった(思考と日常の乖離)。なのでその人は自身の記憶を疑うなり、何者かが食べたのではないかという疑いをもった。」って感じです。

まあなにが言いたかったのかっていうと無って概念は実証的に得られたものではなく、記号としてその存在を用いているに過ぎないんじゃないのってことです。

先の例でいえばプリンがないだけでその人はいますし、冷蔵庫はあります。ただ、その人はその状況に加えプリンもあると考えていたのですが、現実にはそこだけが欠けていた。だからその人はプリンがないという結果を導いた原因を探る思考に移ったって感じですかね。

ただこれは無というものの存在はないと認めていることになりそうなんですよね。

私はむしろ無というものもどこかにあると思っていて、というのも私が今ここにあるということは存在しているということです。

ですがこの世界に生まれ落ちる前には私の存在は可能性でしかないものだったわけです。つまり有るかもしれないだけで、ないことだってある曖昧な存在だったわけです。

これを存在としてあるみるか、ないとみるかということで私はないとみるんですね。

つまり私は存在していなかったものがある「因」によって存在するという「果」に繋がった事象そのものなのではないかと思うのです。

歴史を見る時にその歴史を振り返っている主体の存在をどう扱うかによっても変わってくるものなんでしょうけどね。

ただ、無があることで有があると思うんですよね。光と影みたいなありきたりな考え方ですが、この二つを切り離すことはできないんじゃないかなあって思います。

とにかく両親には感謝ですね。生まれただけでなくここまで育ててまでもらっているので…