中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

ヒトの遺伝子を操作した話についての意見

帰ってニュースを少し見ただけですが、ヒトの遺伝子を操作した人が出たらしいですね。

そもそも遺伝子操作が可能になった時点で、それが人に適用されることは想定してて、その上でヒトの遺伝子操作をしないことを前提にこの分野が発展したんじゃないの?って私は思いますね。確かに社会の常識は疑え、科学の世界でも疑問に思うことは大切といわれ、ルールに縛られないことの必要性についても説かれているわけですけどね。ルールの前にあるのは各員の権利を侵害しない範囲で各人の利益追求などの自由を許容する社会という集合ができるに至った背景があるはずで、これは道徳とかそういったもので表現されることだと思うのです。

ヒトの遺伝子操作をしないのはヒトの遺伝子を操作することによるトレードオフが予測困難なこと、そこからその人に生じた不利益はその人が今後の人生で背負っていくものになるわけですよね?たぶん。その責任をどう負うのか。それは人命にかかわる損害賠償並みの金額を払えば解決するのか、それとももう一回遺伝子を操作して対処療法的な処置で解決するのか。

誰かの利益のために、名誉のために、別の誰かがその意志にかかわらず遺伝子を操作されて、それで「あなたの障碍は取り除かれたのよ」などといわれたとしてもそのことについてどう感じるでしょうか。

もし私が遺伝子操作を経て生まれたとしたら、私は私が造り物なのかと思うかもしれない。それに体の異変が遺伝子操作によるものかどうかなって私にはわからないと思う。怖いと思うし、どうして?って思うかもしれない。きっと障碍があったほうがマシだったのではないかと思うこともあるかもしれない、どれくらいつらいのかは比較できないからね。

確かに病を治せる。それで救われる命がある。そういうと良いふうに聞こえるけどね。病を治した後はどうなるんでしょうね。その場の迫られる課題を解決した後のことはどうでもいいんでしょうかね。そうしなければ失われていた命だとでも言って感謝されてしかるべきとでもいうんでしょうか。

昔から道徳教育がなくても人は道徳を学んでいったはずです。どうして道徳的におかしいように思えることが最近多いんでしょうかね。私が間違っているのかもしれませんね。(今回、なんか理系じゃなくても言えるようなことを言っている気がしますが…)