中の下理系大学生の日記(仮)

いろいろ手探りです 画像はとりあえず付けました

生命ってなんだ

この前ポケモンGOで色違いブルーを捕まえてほんとに青いことに驚いた者です。

前の記事で生命という言葉を深く考えず使ってしまったので、ちゃんと考えてみる。

まず生きてるものと死んでるものってなんだろう。

森の中の倒木は生きているのだろうか。これはこれ自体として世界を知りえないという点では死んでいるのかもしれない。でもこの倒木は確かにその森のそこにある。てことは死んでても生きてても存在はしてる。

つまり存在は生死を定義できないように思える。

人間の尺度で言えば人間は時間を認識できる。だから人間の観測する世界はその人が見ている限りで存在している世界を忠実に描き出しているのだろう。ほかの動物はどうだろう。記憶というものはあるかもしれないが、予測することができる動物はまれであるように思う。ここではヒト以外の動物も記憶を持つとしよう。では植物は時間を認識できるのかな。植物は意志を持たずただその個体を持続させられる限りでそこにあるように思える。でも動物も植物も成長する。それには時間が伴う。認識の有無にかかわらず時間はあるのだろう。死ぬときっと私はそれ以降の世界を描けないのだろう。でもその人の中の観測世界は決して失われたりはしないと思う。誰かが死んで、誰かが生まれて、それでも世界は時を刻んでいく。

結論というか、ざっくりいうと私は存在しているものは生きていて、存在していないものが死んでいるというべきなのではないかと思う。

存在してないものは知りえないのにそれを知っているということはその「存在していないもの」はそれ自身として存在しているのではないかということもできる。でもここでの存在してないものってそういうことを言いたいんじゃないのね。

私はこの問題を考える時、この世界は裏と表があって、私のような「存在しているもの」は表に、表にないものは裏にあるんだと思ってる。

で、もっというと生命ってきっと生きてることを特徴づける名詞にすぎないんだと思う。人間が勝手にそういうことにしただけ。きっと人間は呼吸してるかどうかで生死を判断したんだと思う(実際は人間でも心拍とか細かいのがあるみたいだけどね)。だから今の人間のルールでの生死の線引きで、死んでることになっても、存在してるという意味では生きているんだよね。でもそれじゃあめんどくさいから存在しているものの範囲内で生死という概念を完結させたんだと思う。まぁないものはないってことにするのは便利だからね。

まあ命題に対する私の答えとしては生命は人間の尺度での生死という概念を表現するための名詞でしかなく、本質的な生死を示してはないんじゃないかなって思いました。

こういうことを考えるのは楽しいですね。答えがないので自分の中で一貫させなきゃならないのは少し難しいですが。